ダンボールの家 

友達(以下彼)がこの世田谷美でバイト(研修生だっけ?)しているので、この展と宮本隆司を知りました。彼は、「ダンボールの家」に関して、宮本隆司氏に一言(実際は一杯質問したそうですが)あって、その展示会の見学という研修で宮本氏にお会いしたときに「なぜホームレスの人を撮らないのですか」と聞いたそうです。

 この「ダンボールの家」なんですが、写真にはホームレスの家だけが観賞用のようにくっきりと撮られています。その家について宮本氏は「かわいらしいなんとも不思議な家をつくるんです」というコメントをしています。それに対し彼は反発を覚えたらしく、彼いわく「ホームレスの人たちは、必死になって生きているのに、思うだけならまだしも公の場でそう発言するのはおかしい。」正しいと思います。
 ・・・私はぶっちゃけ、そのダンボールの家の写真を見て、かわいいと思う宮本氏の気持ちがわかります。たしかにかわいらしい。秘密基地のような、その家。でも、実際そこに生活をしている人は、ホームレスという生活をしている人。一日一日を乗り切るのに必死になって生活している人・・・。そんな人々の住む家だけを宮本氏は撮る。ホームレスの人がいると、どうしても無意識的に、そこにいないように、見ないように、無視して、通り過ぎて、行ってしまう。しかし宮本氏はそれを撮り記録している。それについて彼は評価をしていましたが、ホームレスの人を撮らないのは、そういった人々と問題と向き合っていないのではないか、と批判もしました。私はその批判に対しては、「わたしだったら、撮れない。重くて重すぎて撮れないと思う。(びびって撮れない)。」私がホームレスの人達を街中でじっくり見ないのは、彼らを見ていると不安になったり、気持ちが弱くなったりするマイナスの空気が自分の中に生まれるからだ。そう感じているものを撮ろうとはどうしてもできないと思う。私の場合は彼の言う「向き合っていない」ことになるのだろう。
 ホームレスに関して、村上龍の小説『希望の国エクソダス』の中で、たぶん、(念押したぶん!)、「経済(社会だったかなあ??)が壊れてしまうから、ホームレスに優しくしてはいけない。」みたいな文章がありました。確かに、ホームレスに優しくして、ホームレスになっても生きていけるという甘さ・弱さが社会にあって蔓延して危機感が減少してしまったとしたら、壊れると思う。この文を読んでたから、向き合うという“奇麗事”で済まされない問題でもあるのではないか、とも思いました。
 
 話を戻して・・・彼が宮本隆司に質問したところ、宮本氏はこう答えたそうです。
「初めの頃は、ホームレスの人も撮っていたけれど、次第に人を撮らなくなりました。」

 この「ダンボールの家」、世田谷美では、足元の低い位置に展示してあります。これは世田谷美の学芸員の考えであえてそうしているそうです。
 彼の友人は「そんなん低いとこじゃなくて、高いとこに展示して、見上げて見ればいいじゃん」と言ったそうです。私は、展示会で二人のおばちゃんが仲良くしゃがみこんで、一枚のダンボールの家の写真を覗き込んでいる姿を見て、ああ、ありだな、と思いました。普段、そんな姿で見ることも無いホームレスの家を雑談しながらじっくり見る・鑑賞する。
 そんな体験のできる写真。
 普段いない存在にしてしまう人の姿をとらえた写真を見て、その存在を見ること。これが問いというものなんだな、と思いました。