東松照明

 東松の写真は、全て先行された造形物のような、新しい生物が根を生やしてすくすく水を吸い上げて一時一時を呼吸し生きているような、美しく、そこにしかないようで、いつでも現在として存在する、唯一無二の生き物である。
 最近、東松が面白い。勝手に。
 東松が岩波写真文庫(だっけ)に入る前、社内で彼のうわさが広まっていたらしい。その時,1人の編集者(名前は忘れた)は、「トーマス君と言う外人が入るのか〜」と勘違いしたらしい。・・・ぷぷ。
 以下、トーマス君で語ってみる。
 私がトーマス君を知ったキッカケは、かの有名な時計の写真、『爆心地から約0.7kmから掘り出された腕時計』。始めは「?」だった。だが、そのままにはしておけない「?」だった。いったい、どんな時計なのだろう。なぜ、壊れた腕時計だけをとった写真が表紙なんだろう。ただの腕時計の写真なのに、こんなに惹かれてしまうのは、こころの片隅にそっと風が入ってくるような感覚はなんなのだろう。そのあと、気になって気になって、特に東松照明という歌舞伎役者みたいな名前も気になって、とうとうトーマス君を論ずる文章を見て、あああ、そうか、と。文章を見て納得するのは、振り返って考えると浅はかな行為だ。まあ、それが、考えるきっかけになるから、特に問題にはせず、もっといろんな人の考えを読みたいと思っている。

 時計、時計は、いつも気にせずとも音を立てて、一瞬止まっているようにも見え、だがじっとみると、動いている時計。じっと見る行為。これが、時間を知る行為だ。東松の写真をじっと見る行為。だが、その時計は、11時02分を指して、そのままそのままで、まばたきをした後にはもう動いていそうなのに、まだ動かない。なぜだろう。疑問を持つ前に、これは写真なのだから、そんなことに疑問をもつことは変なことなのだが、なぜ、その時計は動かなくなってしまったのか。じっと見る。じっと見て、その写真の中の時間を知る。その写真の中の現在を知る。一瞬一瞬を感じ取る。本当は存在しない時間を想像し創造し、繰り返し繰り返しその世界の中に引きずり込まれる。引きずり込まれるのだ。その写真の中の時計が刻んでいるものは、時間ではなく、こころを、命を、刻んでいる。それが、核爆弾によって主とともに、吹っ飛ばされた、消滅させられた、消えうせた、時間だからなのか。

 やっぱり、トーマス君は面白い。
 もっともっと見たい。もっともっと。