talking picture 切れたメモ帳から

 ここでは、会場にあった『シャルル・フレジェ ポートレート』というジャン=バプティスト・フォーサル監督の映像資料からシャルル・フレジェの語った言葉を抜粋してメモ書きしていきます。

写真を初めて以来、ずっと撮り続けている。

結局、ただ写真を撮るだけではとどまらない。展覧会を開き、写真集を出版することまでやらなければならないわけなんだからね。・・・僕の仕事はつまり作品を完成させることであり、写真集を出版することであり、作品を展示することであり、それについて語ることであり、それらを記録することであり、それらを保存することであり、どのようにみせていくかを考えていくことなんだ。

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プロジェクトのテーマは場所によって強まる。
場所、つまりその環境によってプロジェクトの期間があっという間に決まってしまうことも多い。撮影可能な人の人数や建物の歴史的背景、そして僕に与えられた自由、それら全てが重要な役割を担う。そして撮影に入るんだ。撮影にあたっては、被写体がたとえ大勢の人々に囲まれていてそこが何らかの影響を受けていたとしても、僕はその周囲の環境から被写体をひき離してひとりにしようとする。

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笑わせないと同様に何かを「与える」ようにさせることができる。その仮面を、つまり他人の真似を
被写体から全て取り去ることに成功すると、すなわち、被写体を戸惑う状況に置くと、僕らは彼らを、彼らの本質を「再発見」するんだ。

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僕の世界に対する認識を豊かにすると同時に、僕自身が「シャルル・フレジェ」であり続けるということが重要なんだ。

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このコンセプトをこえて、僕や被写体から何かが逃れ去ってしまうようにするためのルール、多少システマティックなアプローチ、内面の結びつきというものがある。


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僕はむしろとてもごちゃごちゃ取り散らかしたタイプなんだ。写真においてだけ、すべてが秩序づけられ大事に草一本すらどんな小坂い部分も、見逃されずにいる。

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どこでこれらのイメージが撮影されたのかもうわからなくなってしまう。
どちらが現実でどちらが現実でないのか?
僕はアーティストとして常に外側から観察し、写真を撮るためにそれらのグループの中へ侵入し続けるだろう。